宮古の人が読みあげる民話12: 海に咲く花 / 読み手: 宮国優子さん

宮国優子さんに初めて東京で会った時、矢継ぎばやの質問に応えきれず、私がいかに宮古島について無知であるかを思い知らされました。今では、優子さんがそれだけ質問を投げかけるのは宮古島に対してどれだけ本気で向き合っているのかという確認の表現であることと、それが宮古島と目の前にいる人に対する愛情なのだとわかりました。ライターとしての多筆ぶり、好奇心と追求力を心から尊敬しています。

優子さんの経歴については、以下のURLから引用させていただきます。
http://voice.gogetterz.com/voicers/%E5%AE%AE%E5%9B%BD%E5%84%AA%E5%AD%90/

宮国優子(みやぐにゆうこ)

沖縄県宮古島市出身
宮古島で生まれ育つ。島の高校を卒業後、アメリカへ。のちに東京で時代劇制作会社、脚本家事務所勤務を経てフリーライターに。
コラム集「読めば宮古!」「書けば宮古!」を宮古関係者100人と編集執筆。宮古毎日新聞など、沖縄宮古関係の執筆多数。09年、宮古島の歴史文化を発信や人材育成を目標とした一般社団法人ATALASネットワークを友人らと立ち上げる。法政大学沖縄文化研究所国内研究員、沖縄大学地域研究所特別研究員。目下の興味は「宮古島生まれの日本アニメの始祖・下川凹天(しもかわへこてん)」。02年、04年、11年生まれの三姉妹の母。宮古関係者から譲り受けたバーの店主でもある。

うみはな

昔、船でいろんな島や国に渡り、様々なものを買い付けて商いをする船乗りたちがいました。その船乗りの住む国では、5年に一度、海神への感謝に人一人いけにえを捧げる風習がありました。ある年、ちょうどその年に当たり、船乗りたちは頭を痛めていました。「牛や馬なら何とか都合もつくものを、人間はそう簡単にはいかない」と言って。

ある国に渡った船乗りたちは、そこで不思議な子に出会います。十歳くらいの子が、桑の実を一生懸命摘んでいます。訳を聞くと、目の見えない父親と二人暮らしで、家は貧しく、飢えをしのぐために木の実を集めているという。この親孝行な男の子に、船乗りたちは、訳を話し、父親に一生食べさせる分のお金を支払うので、私たちと一緒に来て欲しいと頼みました。男の子は喜んで引き受け、父親に船乗りたちを引き合わせました。
男の子は父親に「私はこの人たちと一緒に旅に出ますが、いつか必ず迎えにきます」と言うと、父親は「君をどこにもやりたくないが、仕方がない。今のままでは君が難儀ばかりして可哀想だから」と言って見えない目から涙を流しました。男の子は父親に別れを告げ船に乗ることにしました。

船は沖に出ると、いけにえを捧げる場所に来ました。神さまに捧げる準備を万事整え「さあ、もうこの世の別れに盃を交わそう」と言いました。そして、白装束をまとわせると海にその子を投げ入れたそうです。
それから5年が過ぎました。ある日、その船乗りたちがまたその場所にやってきました。ところが不思議なことに海の上に美しい花が咲いているそうです。そして、海は凪なのに船は一歩も進まなかったようです。船乗りたちが珍しい花を王様に献上しようと思って、船に乗せるとすぐに船は動き出し順風に乗ってあっという間に目的地に着きました。

「王様、このような珍しい花が海に咲いていました」と言って差し出すと、みんなは驚き、花に触れたり、息を吹きかけたりすると、その花から十歳くらいの男の子が生まれました。何とその子は、5年前海に沈めた子どもだったのです。子どもは王様に一部始終を話し、もう一度父親に会いたいと話すと、王様のお妃様が、全国の盲人を集めました。

そこに一番衰弱した老人を見つけると子どもは駆け寄り、「お父さん、帰ってきたよ」と言って泣きながら抱きかかえました。周りの人たちは感動しもらい泣きしました。王様も、この子の深い愛を褒めたたえ、たくさんのほう美を与えました。そして、養育費も出して教育を受けさせ、立派な高官にしたという話です。

(話者/瑞慶山春諧=城辺長間)

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