16) ユガラ鳥の話

『ユガラどりはなし

むかし、あるいえしょうじきよめがいました。あるとしおおきなたいふうがきてむらじゅうたいへんしょくりょうきんにみまわれました。はたけれるようなものといったらほそながっこのようなおイモばかりです。よめはそんなイモでもいっしょうけんめいあつめてぞくのためにひっはたらきました。あつめたイモはつぶしてぞくにあげ、ぶんはイモばたけにあるフクナズウをってきてイモのうえし、みずひたしてべるのでした。

むかしくすりえいようざいもありません。ただ、ながくなったちいさくまるめて熱いあつはいなかにいぶし、それをおかしてむとえいようきゅうされるというはなしはありましたが、そのでさえかねちのいえにしかありませんでした。だんから使つかっているかねちのいえひとたちは、いろつやもよくげんがありましたが、びんぼういえひとたちは、おしるかいすいんで使つかっていたので、かおいろわるあおざめていて、なかにはえいようりょうたおれるひとたちもいたそうです。

ところが、そのよめはなぜか、いろつやがよくげんでしたので、まわりのひとたちはあやしんでこんなことをささやき、ぞくにもこえるようなかげぐちをたたきました。「おまえさんとこのよめは、イモってきてもぶんでほとんどべ、のこりをぞくにあげているんじゃないか」。そのうち、しゅうとめうたがいだし、「おまえは、ずいぶんいろつやがいいね、やっぱりとなりひとたちのうわさはほんとうみたいね」といやをいいました。

よめはびっくりして「おかあさん、とんでもありません、だれがそんなことを」。「だって、いまどき、そんなにかおいろくしていられるのは、かねちとおまえぐらいだからさ」としゅうとめちをかけます。よめかなしくなってことませんでした。「わたしがどんなおもいでしょくりょうさがし、それでもぶんざっそうだけをべているのに」とおもうと、くやしくてなみだまりませんでした。そして、「そこまでうのでしたら、ていてください」とうなり、ほうちょうし、おなかじゅうもんいきえました。おなかなかからはフクナズウのかすしかたりません。しゅうとめは、「すまない、すまない」とってくずれました。

それから、よめかたまりは、ユガラどりになってんでいきました。よめしょうじきだったので、ユガラどりかげぐちぐちをするひとがいればがたかなしそうにくし、わるひとがいればおこったようにくし、わざわいがこるまえにはなかからさわがしくまわるということです。むらびとたちはこうしたユガラどりだいにし、いろいろなきょうくんをいただいたそうです。

しゃまえざとざいぐすく

ちゅう
よめさんは自分じぶんはうそをついていないと自分じぶんのことばを証明しょうめいするためにんでしまいました。

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